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谷口隆

Author:谷口隆
数学を題材に綴るというちょっと変なブログですが,楽しんでいただけたらと思います.いろいろな数学を取り上げ文字に起こすことで,『数学とはどんなものか?』ということを,読者の方と一緒に考えていきたいと思っています.本人は,整数論という数学の一分野を研究しています.1977年生まれ.
今まで書いたもの一覧



連載コラム『数学者的思考回路』
(裳華房ウェブサイト,共著)

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位取りの難しさ
2年生になった娘ですが、一昨日の宿題で、「10を45個集めた数はいくつですか?」という問題に405と答えていました。10が40個で400まではよかったのですが、そのあともう5個というのが50にできずに5を加えてしまったんだろうと、まぁ見当はつきました。子供と次のような会話をしました。

私:ん?ちょっと待って。それホンマかな?
子:え?合ってるで。
私:そうかな、違うような気がするけど。
子:だって10を45個なんやで。だからヨンヒャクゴやん。


間違っているとは露ほども思っていない様子です。

私:じゃあ10が40個やったら?
子:ヨンヒャク。
私:そやな。じゃあ10が41個やったら?
子:ヨンヒャクイチ。
私:そう?
子:うん。
私:10が41個っていうことは、40個よりもう1個多いってことやで。
子:うん、だからヨンヒャクイチ。
  ‥‥あぁちゃうわちゃうわ、ヨンヒャクジュウや (*^^*)
私:そうそう。じゃあ10が45個やったら?
子:えーと、ヨンヒャクゴジュウ (^^)

わりとご機嫌に書き直していたので、誘導はまぁうまくできてよかったなと思います。

●   ●

位取りの難しさについては、『子供と学ぶ二度目の算数』の24と42のエピソードも含め、子供と算数をする中で幾度となく考えさせられ、よく分かっているいるつもりでした。しかしもうさすがに、買い物など多様な場面で何度も数字を見、操作してきているので、まだこんな間違い方をするのか、そしてちょっと指摘するだけでは間違いに気づけないのかと、この件では少しビックリしました。私の子供がそこまで鈍いのではきっとなくて、位取りの方が難しいのだろうと思います。

こういうことは、子供が自分で納得できるまで落ち着いて考えることが大切で、また、よく理解できないまま飲み込むのは将来的にはよくないだろうという感覚があります。ですので、いつになったら間違いなくできるようになるのだろう、という気持ちがないわけではないのですが、気長に待つこととします。

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未分類 | 09:16:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
形だけ
更新ペースが遅いですね。ひと月以上更新していないと広告表示が出て見づらくなるので、形だけの更新をしておきます。

未分類 | 03:22:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
数学と「ノー」と「イエス」の非対称性
京大の望月新一先生が、1年ほど前からブログを始めていらっしゃったことを知った。

新一の「心の一票」
という題で、

「新一」という人物の様々なことに関する「心の一票」=声=本音を解説するブログ

という中身だそうだ。とてもクリアな日本語で、数学者らしい文体と内容が興味深い。

ご本人の説明によると、ドラマ「逃げ恥」について考えたことを書いてみたくなったというのも動機の一つだそうだ。残念ながら僕はこのドラマは見ていなかったので、この点の詳しいことは分からないが、いずれにしても正直なところ、こんなことを考えていらっしゃるとは全く知らなかった。

(注:なりすましでないことの裏は取っていないが、質や量からして、他人が書くことはまず不可能だと思う。)


●   ●

望月先生の2017-11-21日付の記事によると、数学とは『人類の認識の仕組みの論理構造の解明』とされている。僕も以前、『数学はあくまでも人類が「理詰めで考えて分かる」ことにはどのようなものがあるか?を追求しているように僕には思える』と書いたことがあって、何となく似ている。でも望月先生はもっと徹底していて、同じ記事の中で

数学=人類の認識の仕組みの論理構造の解明はまさに、「ノー」と言うべきときに断固たる「ノー」を突き付けるための、一種の究極的な技術・手段

となっている。「ノー」(いいえ・違う)と言う手段を数学が提供するという指摘は興味深いな、と思った。「イエス」と言う手段ではなく、「ノー」と言う手段だという点に注目したい。

●   ●

研究の世界では、論文を学術誌に掲載するとき、「査読」というプロセスがある。学術誌に投稿された論文の正確さや価値を、分野の近い同業の専門家が匿名で審査する。数学の場合、証明の「正しさ」はまずもって審査対象となる。しかし考えてみれば、自分の査読経験の限り、「正しさ」自体を直接に確かめることはできない。査読でやっている作業は、「間違いがないか?」を一つずつの論点について確認していくことだ。その中で間違いが発見できれば、その論文は「間違い」とわかって査読結果が報告できる。論文について「正しい」という報告をするのは、最後まで読み終えて間違いが見つからなかったときである。

具体例を取れば、例えば √2 が無理数であることの証明の「正しさ」は、そのようにして判定されている。証明のどこを読んでも間違いがないので、「正しい」と判断している。誤りは積極的に判定できるが、正しさは消極的にしか判定できない、という非対称性が正誤の判定にあるように思われる。

この非対称性の話をもう少し押し広げると、意思表示ができるようになったばかりの幼児(2歳前後?)の、「ノー」と「イエス」の非対称性が思い浮かぶ。「ノー(いいえ)」と「イエス(はい)」は対義語のようだが、この時期の幼な子からの意思表示は基本的に「ノー」しかない。ちょうど今うちに、2歳になったばかりの子供がいる。「お風呂に入る?」「散歩に行く?」「ご飯食べるよ~」と言った問いかけ・提案・指示などに対し、そうしたくないときは首を横に振る否定の仕草をする。でも、そうしてよいときやそうしたいとき、笑顔を見せたりはするが、首を縦に振って頷く肯定の仕草は別にない。幼児において、否定と肯定の間にこのような非対称性がある。そして、”したくない”の「ノー」よりもうちょっと直接的な日本語は「イヤ」であって、この「イヤ」には対義語がない。

●   ●

違うときに違うことをはっきり説明できるのが論理であり数学である、というのはその通りであると思う。望月先生の記事では、結びの方で次のように書いてある。

人類にとって最も究極的な「武器」はやはり核兵器や化学・生物兵器等ではなく、物事や仕組みの本質的な論理構造を研究し、明らかにすること、つまり、一種の広い意味での「数学」

論理で勝敗が決まるわけではない。例えば、権力は容易に論理を踏みにじることができるのは、ここ数年の政権の横車の押し方を見ればわかる。でも、少なくともそれが「横車を押す」行為だと明白にすることが、論理にはできている。論理というのは背景の異なる人同士がともにやっていくための対話の道具でもあるが、それは同時に抵抗の手段にもなるのだろう。

未分類 | 08:04:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
数学者的思考回路・第3回
裳華房(しょうかぼう)のウェブサイトで始めた連載コラムの第3回が配信されています.今月は,「サイン・コサイン・タンジェント」という題で,三角関数を学ぶことの意義について,数学関係者の立場から考えてみました.


「三角関数」と名前がついているので,三角形とかかわる関数ではないかと思うのが普通です.確かに三角形とも関係はありますが,本来は円関数と呼んだ方がよいような,円とのつながりが基礎になる関数です.周期的な繰り返しになる現象を考えるうえで欠かせない関数です.

記事はこちらから⇒サイン・コサイン・タンジェント


未分類 | 09:00:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
NHKの番組
Eテレで,

数学ミステリー白熱教室 ~ラングランズ予想への招待~

という番組が放送されるそうです.4回シリーズで, 毎週金曜日の午後11時からです.初回は今週の13日です.(2か国語放送(日・英) だそうです.)

副題の「ラングランズ予想」は簡単には説明できませんが,現代数学(特に整数論)の大きな研究テーマのひとつです.フェルマーの最終定理も,このラングランズ予想を部分的に証明した帰結として得られました.フェルマーの最終定理の話は,第3回に出てくるようです.興味があればぜひどうぞ.


未分類 | 18:49:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
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