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谷口隆

Author:谷口隆
数学を題材に綴るというちょっと変なブログですが,楽しんでいただけたらと思います.いろいろな数学を取り上げ文字に起こすことで,『数学とはどんなものか?』ということを,読者の方と一緒に考えていきたいと思っています.本人は,整数論という数学の一分野を研究しています.1977年生まれ.
今まで書いたもの一覧



連載コラム『数学者的思考回路』
(裳華房ウェブサイト,共著)

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数学と「ノー」と「イエス」の非対称性
京大の望月新一先生が、1年ほど前からブログを始めていらっしゃったことを知った。

新一の「心の一票」
という題で、

「新一」という人物の様々なことに関する「心の一票」=声=本音を解説するブログ

という中身だそうだ。とてもクリアな日本語で、数学者らしい文体と内容が興味深い。

ご本人の説明によると、ドラマ「逃げ恥」について考えたことを書いてみたくなったというのも動機の一つだそうだ。残念ながら僕はこのドラマは見ていなかったので、この点の詳しいことは分からないが、いずれにしても正直なところ、こんなことを考えていらっしゃるとは全く知らなかった。

(注:なりすましでないことの裏は取っていないが、質や量からして、他人が書くことはまず不可能だと思う。)


●   ●

望月先生の2017-11-21日付の記事によると、数学とは『人類の認識の仕組みの論理構造の解明』とされている。僕も以前、『数学はあくまでも人類が「理詰めで考えて分かる」ことにはどのようなものがあるか?を追求しているように僕には思える』と書いたことがあって、何となく似ている。でも望月先生はもっと徹底していて、同じ記事の中で

数学=人類の認識の仕組みの論理構造の解明はまさに、「ノー」と言うべきときに断固たる「ノー」を突き付けるための、一種の究極的な技術・手段

となっている。「ノー」(いいえ・違う)と言う手段を数学が提供するという指摘は興味深いな、と思った。「イエス」と言う手段ではなく、「ノー」と言う手段だという点に注目したい。

●   ●

研究の世界では、論文を学術誌に掲載するとき、「査読」というプロセスがある。学術誌に投稿された論文の正確さや価値を、分野の近い同業の専門家が匿名で審査する。数学の場合、証明の「正しさ」はまずもって審査対象となる。しかし考えてみれば、自分の査読経験の限り、「正しさ」自体を直接に確かめることはできない。査読でやっている作業は、「間違いがないか?」を一つずつの論点について確認していくことだ。その中で間違いが発見できれば、その論文は「間違い」とわかって査読結果が報告できる。論文について「正しい」という報告をするのは、最後まで読み終えて間違いが見つからなかったときである。

具体例を取れば、例えば √2 が無理数であることの証明の「正しさ」は、そのようにして判定されている。証明のどこを読んでも間違いがないので、「正しい」と判断している。誤りは積極的に判定できるが、正しさは消極的にしか判定できない、という非対称性が正誤の判定にあるように思われる。

この非対称性の話をもう少し押し広げると、意思表示ができるようになったばかりの幼児(2歳前後?)の、「ノー」と「イエス」の非対称性が思い浮かぶ。「ノー(いいえ)」と「イエス(はい)」は対義語のようだが、この時期の幼な子からの意思表示は基本的に「ノー」しかない。ちょうど今うちに、2歳になったばかりの子供がいる。「お風呂に入る?」「散歩に行く?」「ご飯食べるよ~」と言った問いかけ・提案・指示などに対し、そうしたくないときは首を横に振る否定の仕草をする。でも、そうしてよいときやそうしたいとき、笑顔を見せたりはするが、首を縦に振って頷く肯定の仕草は別にない。幼児において、否定と肯定の間にこのような非対称性がある。そして、”したくない”の「ノー」よりもうちょっと直接的な日本語は「イヤ」であって、この「イヤ」には対義語がない。

●   ●

違うときに違うことをはっきり説明できるのが論理であり数学である、というのはその通りであると思う。望月先生の記事では、結びの方で次のように書いてある。

人類にとって最も究極的な「武器」はやはり核兵器や化学・生物兵器等ではなく、物事や仕組みの本質的な論理構造を研究し、明らかにすること、つまり、一種の広い意味での「数学」

論理で勝敗が決まるわけではない。例えば、権力は容易に論理を踏みにじることができるのは、ここ数年の政権の横車の押し方を見ればわかる。でも、少なくともそれが「横車を押す」行為だと明白にすることが、論理にはできている。論理というのは背景の異なる人同士がともにやっていくための対話の道具でもあるが、それは同時に抵抗の手段にもなるのだろう。

未分類 | 08:04:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
続・子供と学ぶ二度目の算数
昨晩の出来事。

小学1年生の子供が、算数の問題集の前の方に、間違いが1つ残っているのを見つけた。解きなおしたくなったらしく、妻と一緒に考え始めた。


このようなカレンダーが載っていて、「15日の4日あとは?」という問題。子供は11日と書いていて、ペケがついている。

●   ●
 妻:15日の4日あとは?
 子:11日。
 妻:それは4日まえとちゃう?
 子:ん?
 妻:んー、じゃあね、15日の4日まえやったら?
 子:んー、11日。
 妻:でしょ。じゃあ、15日の4日あとは?
 子:11日!
 妻:( ̄□ ̄)!!それは4日まえとちゃう?
 子:ん??

ここで妻から、「どうしたらええのん?」とバトンパスされた。私としては一瞬、ここまで子供なりの理屈があって11日にしてる以上、まぁもうしばらくは11日のままでもいいんじゃないか(やむを得ないんじゃないか)とさえ思ったが、子供の方が何でペケになっているか理由を知りたがっている。えーっと、でもどうしましょうかねぇ。。じゃあまず‥


 私:3日の2日まえは?
 子:1日。
 私:じゃあ3日の2日あとは?
 子:1日。



なるほどねぇ。どっちも同じ答えになるのか。うーん、では‥


 私:7日の2日まえは?
 子:5日。
 私:(ふと思いついて)じゃあ7日のあさっては?
 子:んー、9日。
 私:(おっ、後ろになった。)じゃあ7日のあさってのあさってのあさっては??
 子:!!分からん!
 私:そうか。(ちょっと悪ノリだったか。)じゃあ、7日の、あさってのあさって、やったら?
 子:んーと、11日。
 私:じゃあそれのあさってやったら?
 子:あぁ、13日か。
 私:じゃあ、7日の4日あとは?
 子:11日。
 私:(あらできた。)じゃあ‥
 子:(問題集に目を向けて)あ、19日か。19日やなぁ (*^-^)



と、ここで正解が分かったらしい。子供はここで満足したようだ。

●   ●

これで「15日の4日後は?」という問題が理解できたとはまだ言えない。こんなに誘導を重ねてやっとできたのだから。今日は正答への道筋をともかく辿れたというぐらいだ。自分一人でも辿れるようになるか。もちろん、こんな回りくどい道でなくてよいはずで、一旦分かれば簡単だろう。ひょっとすると数日のうちにできるようになるかも知れない。でも構成論的に考えると、それと並んで大事なのは、4日前と4日後で同じ答えになったこと、それに違和感がなかった思考の調整だと思われる。子どもなりに考え、あれだけ整然と答えていたわけで、この思考の調整には結構時間がかかるかも知れない。大人としてはここは、たまに必要なときの支援をしながら、ゆっくり待つのがいいように思う。この調整のプロセスが長いのであれば、きっとその分、そこで子供は多くことを学ぶのだろうから。

●   ●

(追記)しかし、何で4日前も4日後も11日になったのか。それはよく分からんかった。



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コラム | 09:05:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
構成論の紹介(その1)
裳華房の連載コラム『数学者的思考回路』の第17回「子供と学ぶ二度目の算数」に書いたような子供への接し方は、たまたま知った「構成論」という幼児教育の理論に少なからず影響を受けています。コラムの補足として、この「構成論」という理論について簡単に紹介したいと思っていたのですが、なかなかまとまりそうにありません。埒があかないので、思い切って、見切り発車でともかく書き始めることにしました。不完全な点があるかと思いますが、それでも何かご参考になることがあれば幸いです。


---

構成論はピアジェという心理学者の心理学と認識論を幼少教育に応用した理論です。英語は constructivism です。

構成論によると、子どもは自分の知的な体系や道徳性を、自分自身で構成しながら(作り上げながら)成長します。もし、子どもが当初から大人と同じように物事を考えることができるならば、子どもはただ知識が不足している状態で、教育の目的は、知能を形成することではなく、知識を与え、つめ込むことになります。いわば出来上がったからっぽの「箱」にどんどん物を入れていくように。これに対し、構成論では、知的・道徳的に考える力の形成こそが教育の主要な目標になります。その中で知性や道徳性が有機的な体系をなすような「よい箱」を作る(構成する)ことこそが大切、というわけです。(「構成論」の「構成」はこの構成です。)

そして、このような力は外側からは形成することができません。構成するのは子ども自身であって、このために子どもは自発的に活動する、能動的な学習者となる必要があります。このため、教育において大人(教師)は、子どもに対する権威の行使や支配を最小限にとどめ、子どもたちの自発性・あそび・実験・思考・協同などを促すよき相談相手・導き手とならなければなりません。

構成論では、幼児は、事物への物理的な働きかけとその反応を関係づけることによって自らの認知的な構造を発展させていく(より知的になっていく)と考えます。幼児には、活動を伴わない思考がありえないからです。では、子どもはどのようなとき自発的に活動するものでしょうか。ピアジェは「興味」を構成的過程の「燃料」(エネルギー)と考えました。幼児にとって、興味や関心は自発的活動の中心をなすもので、それによって、子どもは知識と知能を構成します。興味というものがなければ、子どもは経験を理解しようとする努力をしないし、新奇なものへの興味がなければ、子どもは自分の考えを修正しようともしません。

だから、構成論に基づく教育は、子どもの活動に本来備わっている自発的興味を呼び起こすものでなければなりません。しかし、その方法がどのようなものであるかはあまりはっきりしていません。ピアジェ自身も「どのようにすれば子どもの自発的活動に訴えることができるかを知ることほど、大人にとってむずかしいことはない。」と述べています。かくして、この方法を見出すことが課題の一つになります。


(続きます。次回はピアジェが、子供たちのする「まちがった考え」に重要な価値を見出した点について書きたいと思います。)

参考文献:『ピアジェ理論と幼児教育の実践』(デブリーズ / コールバーグ著,加藤泰彦監訳,北大路書房)

コラム | 10:02:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
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